乗り物に乗るという贅沢
私は旅の中でも「乗り物」に乗っている時間が好きだ。
それは、乗り物に乗るという行為が、本質的に贅沢なものであり、それを享受しているということを実感できるからだ。
どういうことか。
古来、旅は徒歩に限っていた。
死と隣り合わせであり「何があってもおかしくない」様相が色濃かった。これを最低限保障するには、駅伝制度や宿場の整備、警察機構の確立が大前提となる。
ホモ・サピエンスがアフリカからペルーまで版図を広げたのは、決死行の連続によるものだということを忘れてはならない(戒め)
そして、車が発明され、乗り物という概念が生まれたのちも、それにに乗って移動する、というのは、相当な社会的身分でなければできなかった。これは、何も始皇帝の行幸の頃の話ではない。近代に至るまでそうだった。
となれば、何ら脳や肉体のリソースを割くことなく、目的地まで身をまかせ、ただただ景色を満喫したり、大幅な時間短縮を図ったりするこの行為は、歴史的には大変贅沢であり、この実感を噛み締めつつ、旅情の断片とするに若くはないのである…
ちなみに俺は新幹線でこの記事を書いて眠くなって寝た。始皇帝が俺になった夢をみているのか、俺が始皇帝になった夢をみているのか。
考えるのは、もうよそう。